1995年1月17日、マグニチュード7.3の地震によって、現代の大都市に大きな被災をもたらした阪神・淡路大震災は、我が国の防災政策の大きな転換点となりました。
行政へのお任せ防災に留まっていた住民にとって、耐震化や家具固定などの不十分さが被害を拡大した阪神の反省も踏まえ、行政からの支援も受けて自ら住まいを強くするなどの備えの強化が進み、災害被害の軽減の取り組みが展開されてきました。また、発災時には互いに助け合いつつ、ボランティアの支援も受け入れ、その後に強化された支援策も活かして暮らしを再建してきています。当時の貝原俊民兵庫県知事が掲げた「創造的復興」は、国際防災用語「Build Back Better」として世界中に共有され、経験の学び合いが拡がっています。
その阪神・淡路大震災の被災地で、産官学民の防災の多様な担い手が一堂に会して、互いの取り組みから学び、深め、防災力の向上を図るきっかけとするのが、「ぼうさいこくたい2022」(防災推進国民大会in兵庫)。大会テーマは、「未来につなぐ災害の経験と教訓〜忘れない、伝える、活かす、備える〜」です。
こくたい開催を間近に控え、
中川和之 内閣府TEAM防災ジャパンアドバイザー(時事通信社解説委員)
───神戸市須磨区生まれの齋藤知事は、1995年1月17日の地震の時には、進学先の松山市におられたそうですね。当時は、どういう様子でしたか?
齋藤:高校生だったあの日は、松山市内で寮生活をしていて、朝、早めに起きてラジオを付けたら、神戸で大きな地震が起きているというニュースが流れていました。すぐに須磨区の実家に電話したら繋がって、家族が無事だと分かりました。
そのあと、いつもどおり登校したら、神戸の被災状況がすごいことになっているということで、神戸出身の生徒は家族の安否確認の連絡をすることになったのです。その時点ではもう電話が繋がらなかったので、すごく心配しました。夕方になって、再び電話をかけたら繋がって、無事を確認できて安心しました。テレビの映像で高速道路の倒壊も含めて、ショッキングな様子を見て、個人としてショックな一日でした。
───神戸には、地震後、いつ帰ってこられたのですか?
齋藤:阪神地区から来ていた生徒は、1週間の特別休暇を与えられました。どうやって帰ったか覚えてないのですが、乗り継いで帰ってきて、改めて家族の無事を確認しました。地震前から入院していた祖母の様子を確認しに、自転車で須磨から東灘まで走った時の光景は、粉塵もすごく、衝撃的でした。
ケミカルシューズを営んでいた実家は、震災前から経営は厳しかったのですが、震災でさらに厳しくなりました。震災は、何かを壊すハードの被害だけでなく、その後の地場産業にとってソフト面での影響がすごく響いたというのが実感でした。
───その後、大学を出て総務省に入られるわけですが、そこで阪神の体験などは影響されたのですか?
齋藤:実は、経済産業省と総務省の両方を受けていました。大震災で被災した実家のこともあり、地域産業の成長は大事だと思っていましたので迷いました。最終的には、地域の経済や地場産業の育成だけでなく、防災面も含めて、全自治体を所管し、経済も含めて総合的にやれるのが総務省だと考えて入省しました。
───東日本大震災2年後から3年近く、宮城県庁で財政課長などを務められました。
齋藤:宮城県庁で、大きな災害からの復旧・復興では、広域自治体である県の役割が大事だということを実感しました。個別のまちづくりは市町村の役割ですが、大きなグランドデザインは、県がしっかりコントロールしていかないといけない。そこでの県や知事の役割は大きいと実感しました。
宮城県の村井知事からは、災害後の首相官邸の会議で、貝原元兵庫県知事から創造的復興の意義を伺い、「引き継いでいかねばと強く感じた」と聞かされました。
───そこで改めて、阪神・淡路大震災の経験を、ご自身も学ばれたそうですね。
齋藤:いま、兵庫県には2,500億円ぐらいの起債の債務が残っていて、その返済が続いています。東日本大震災の被災地では、ほぼ借金がないのです。そこは財政の立場としてぜんぜん違うんですね。阪神大震災当時は、いわゆる「後藤田ドクトリン」で、国は従来政策の範囲での復旧までということになって、貝原知事の「創造的復興」も思うとおりには出来ませんでした。
宮城県の財政課長時代に、「創造的復興」を誰が言い始めたかを調べていて、阪神当時、コープこうべの専務理事だった増田大成さんが、地震から1週間後、組織内に向けて「よりよい社会を作る創造的復興」という言葉を書いておられた。それを知って、兵庫県の防災担当の方につないでもらって、増田さんに電話をしたんです。増田さんからは「よく発見したね」と言われました。その後も交流が続いていて、県知事になったいまでもお会いしたりしています。神戸市の都市問題研究所の「都市政策」にも寄稿させていただいたりもしました。
政府が復興に公費を投じ、地域を作り替えていくという制度設計の大事さが理解され、東日本大震災での復興交付金というメニューができました。東日本の直後、国民全体で被災地を支えるという増税が受け入れられ、制度化のコンセンサスにも繋がったわけです。
後年の被災自治体にとって、復興財政の礎を作ったのは兵庫県で、東日本や熊本などでの国の対応の流れに繋がりました。宮城県庁の財政課長としては、このスキームのおかげで助かりました。
その東日本などの経験も踏まえ、スピード感を持って対策を打てる包括交付金としてコロナ交付金も設けられ、自治体が思い切っていろんなことがやれています。これも兵庫から繋がっているのだと思います。
阪神に作られた創造的復興の理念は、世界に普遍的な理念となりましたが、それはこの神戸、兵庫から生まれたんですね。創造的復興が兵庫から生まれて、いろんな国の支援に繋がっていった、阪神の経験教訓の一つが行かされたことを、県民の皆さんにも知っていただくことも大事だと思います。
───その兵庫、神戸でぼうさいこくたいを行うことになりました。会場の一つの人と防災未来センターも、国と地元自治体で設置して20年経ちました。
齋藤:貝原さんの創造的復興の理念の一つとして、経験や教訓をつないでいく拠点として、人と防災未来センターや周辺のHAT神戸のエリアが形成されました。
人と防災未来センターには、県外からも多くの児童生徒が訪れ、当時の生々しい状況や、防災の大切さについて、知って持って帰ってもらう拠点になっています。防災・減災の発信はすごく大事です。
復旧・復興にはマンパワーが大事で、人材育成が求められます。県立舞子高校やセンター地元の渚中学校など、子どもたちのいろんな取り組みも知って欲しいですね。こくたい後の2025年の万博の際には、世代を超えて伝えようとしている子どもたちの防災の取り組みを発信したいと、吉村大阪府知事にも提案しています。
人と防災未来センターでは、研究活動と発信も行っています。宮城県ではできていないので、地元の大学との連携で進めていますが、ここでハードとしての人と防災未来センターと研究者の育成というソフトを作ったのは意義が大きいです。これからもしっかりやって欲しいですね。被災自治体には財源が大事なので、行財政分野の研究にも期待したいです。
───兵庫、神戸に来ていただく全国の方に、見ていって欲しいところはありますか?
齋藤:ケミカルシューズも含めて、いろんな地場産業がありますので、ぜひ、いくつか買って帰って欲しいです。灘五郷の酒蔵でも、被災後に自主再建してまだ返済を続けている蔵もあります。地震のあとも、美味しいお酒を絶やさずに造り続けようと必死で再建し、きれいな施設になっているので、そういうところに立ち寄っていただければ。中心地の三宮もですが、いろんなところに足を運んで、ものを買ったり、県民と交流して欲しいですね。
(了
───久元市長は、被災が激しかった神戸市兵庫区生まれですが、1995年1月17日の地震の時には札幌市役所で財政局長をされていましたが、当時はどういう様子でしたか?
久元:当日は、朝7時のニュースで地震を知りました。既にかなりの惨状の映像が流れていました。子どもの頃に過ごした新開地の近くや松本通などで火が燃えさかっているのが分かり、大変衝撃を受けて涙が止まりませんでした。
私が神戸出身と知っていた札幌市役所の有志が神戸市への義援金を集めてくれたので、神戸市役所へお送りさせていただきました。
地震後に神戸に来ることが出来たのは、2ヵ月程たった3月20日前後でした。私が通った小学校が統合した先の兵庫区の小学校を訪問しましたが、避難者がまだまだたくさんおられました。
───子どもの頃のご近所だった兵庫区松本通は、復興まちづくりでよく知られているところですよね。
久元:小学校区だった松本通は、震災前の様子も知っていますが、地震とその後の火災で壊滅的な被害を受けていることが分かって、大きなショックでした。
神戸市役所で仕事をし始めてから、みなさんの経験を聞かせていただいて、その苦労を改めて深く理解しました。松本通では、住民と行政がコラボし、せせらぎを復活させて潤いの空間とするとともに、いざというときには防火用水に活用するという大変素晴らしい取り組みで、他の地域の参考になると思います。
───阪神・淡路大震災の19年前に、旧自治省に入省されています。当時、自治体にとっての防災業務をどう意識されていましたか? 神戸市役所は自治体行政のお手本のように言われた時期もありましたが、出身者としてどのように受け止められていましたか。
久元:消防庁が自治省の外郭ですし、自治体業務の中で安全や防災には最高の優先順位が付けられるべきと、入省したときから思っていました。総務省(旧自治省)では、自治体の主要な業務を所掌する自治行政局長も務めましたが、頻繁に起きない大災害だからこそ、防災行政は最優先にやるべきだと思っています。
神戸市役所で業務を始めたのは2012年で、それ以前の市政は直接経験していないのでよく分からないのですが、確かに原口市政や宮崎市政の時代に、神戸市は先導的な行政施策を展開していて、出身者として嬉しい気持ちはありました。
───被災した神戸市から全国に向けて伝えたいこと、ぼうさいこくたい2022で神戸から持って帰って欲しいことはどういうことですか?
久元:次の3つのことをお伝えしたいです。
まず、27年前に神戸が経験したことを知って欲しいです。なにより、事前に直下型の地震を想定していなかったことです。市役所の中では、直下型に対する綿密な計画を作ろうという動きもあったようですが、全体には共有はされていませんでした。主に阪神大水害や昭和42年水害のような土砂災害を想定し、地震を想定していなかったのです。国も大規模地震対策特別措置法で東海地震だけに特別な政策を展開していたことで、他の地域は地震の可能性が低いというメッセージになっていたのではないかとも思います。
神戸の市民意識も同じです。私個人も大学で東京へ出るまでの間に、地震の記憶は1度しかありません。東京にいた頃は、母親から「地震が起こるところにいるより、早く神戸に帰ってこい」と言われていたほど、「神戸は地震がない」のが常識になっていたところで、地震が起きたのです。
2番目は、都市インフラが災害に大変弱かったということです。地震直後は水がなくて、火災も消せず、避難所や市民生活が悲惨な状況でした。
当時の神戸市は、ただちに大容量送水管の建設に着手し、20年かけて完成しています。これで、いざというときには12日間分の生活用水も確保できました。また、建物の耐震化の促進や南海トラフ地震の津波にも対応した防潮堤の整備も進めてきました。
3番目は、今回のぼうさいこくたいのテーマにもありますが、震災の教訓をどう受け継ぐかという課題です。いまは、震災を経験した市民や職員がまだ残っています。当時第一線で苦労した市役所の中堅・若手職員がいま局長などの幹部になっていますが、その経験を継承するために行政内部で取り組みを進めています。また、NPOや市民団体の活動を積極的に支援していることは、このためでもあります。
───改めて、その市民のボランティアの参画意欲などについて、感じられていることはありますか?
久元:1995年はボランティア元年とも言われ、たくさんの方が神戸で活動をされました。その後、神戸の市民団体やNPO、地域団体が他の被災地へ出向いて活動をしています。東日本大震災の時にも、多くの神戸市民が被災地に支援を行い、防災だけでなく、スポーツや音楽、芸術などでの継続的な交流にも繋がっています。
大規模災害は悲劇的な出来事ですが、その悲劇を克服しようという人々が繋がって、未来に向かって災害を軽減させていこうとする取り組みも生まれています。
地域には、震災を経験したリーダーがいて、避難所の運営などを子どもたちにも教えていたりします。歳月が流れても、経験や記憶を次の世代に伝えることが出来ています。
また、研究者の世界でも積極的に交流が行われていますし、大学生や高校生でも意識・関心が他の都市よりも高く、参画する人も多いのではないでしょうか。神戸でのぼうさいこくたいでも、大学生や高校生の参加がかなりあると聞いています。神戸での取り組みや経験が継承されていることの表れだと思いますので、全国から来られる皆さんに知っていただきたいですね。
───会場となる「HAT神戸」は、以前は重厚長大産業が製造拠点を置いていた場所でしたね。
久元:元々工場施設が縮小していくなかで、神戸市では地震の前から再開発を計画していましたが、震災後「HAT神戸」と名付けて本格的に実行していきました。そこは、単に復興住宅を作るだけではなく、災害の教訓を伝える施設や災害医療の拠点施設も設置し、復興住宅でも住む人たちが地域コミュニティを作って支え合えるまちにするというイメージでした。実際に人と防災未来センターや災害医療センター、県立美術館、JICA関西などの施設も入ったまちになりました。
震災当時の貝原兵庫県知事が事故で亡くなられる直前に神戸新聞で連載していた記事に、HAT神戸を「人間サイズのまちにする」と、相当な思いを持って取り組まれたことが書かれていました。神戸市の考えも付合して、兵庫県と神戸市の連携・協調が目に見える形で進み、震災の経験が活かされたまちになったと思います。
一方で、まち開きから年月が経ち、入居者の高齢化も進んでいます。現在、社会全体として高齢者の孤立・孤独という問題があり、高齢者を含めた人々のコミュニティの再生に新しい発想を取り入れて考えていく必要がありますが、HAT神戸はそのような取り組みの舞台となるまちではないかと思います。
───産業都市神戸についてはどのように伝えたいですか。
久元:自衛消防隊が地域の消火に大活躍した三ツ星ベルトなど、企業と地域の皆さんのつながりや連携の大切さが、震災で改めて確認されました。
また、ポートアイランドでは、震災後、神戸市が医療産業都市構想をゼロからスタートさせ、今は日本を代表するバイオメディカルクラスターになりました。理化学研究所のスパコン「富岳」があって、川崎重工やシスメックス、神戸大学なども参加して、開花期を迎えています。震災が産業イノベーションの契機となったと言えるでしょう。
1995年は、神戸にとっては震災がすべてでしたが、ウインドウズ95が発売され、ネット社会が始まった年でもありました。神戸はだいぶ乗り遅れましたが、現在は災害対応にLINEを活用するということもやっています。今回のぼうさいこくたいでは、防災対策やまちの復興に新たなテクノロジーをどう活用するのか、全国各地の皆さんと情報共有し、相互に学び合うことが出来ればありがたいですね。
(了)